冷酷な御曹司に溶かされて
平凡なOL・桐原瑠奈は、突然大企業グループの御曹司・白銀俊哉から契約結婚を申し込まれる。経営戦略の一環だと聞かされ、引け目を感じながらも条件に同意した瑠奈。冷たく無表情な彼は、結婚式の日も結婚後もこれは契約だと繰り返すばかり。高級マンションでの新婚生活は気まずく、瑠奈は息を詰めるような日々を送っていた。
白銀家の社交界デビューで晒される瑠奈を見守る俊哉の瞳は柔らかく、その矛盾に瑠奈の心が揺れ始める。やがて彼女は気づく——俊哉の冷酷さは本当の優しさを知られたくない防御なのだと。秘書の美しい女性が執拗に俊哉に接近してくると、瑠奈の心に初めて嫉妬が芽生える。俊哉も同じ気持ちなのか、彼は瑠奈の手を離さなくなり、二人の距離は劇的に縮まっていく。
しかし、契約結婚という建前が邪魔をする。瑠奈は本当に愛されているのかという不安に押しつぶされ、俊哉は契約という枠を超えた本音を告げるべきかで葛藤する。密着する中で交わされるキスも、抱き寄せる手の温もりも、すべてが疑いの種になってしまう。同時に、俊哉の経営する企業の内部告発問題が浮上し、瑠奈が関わっていることが明かされようとしていた。
真実の愛なのか
冷酷な御曹司に溶かされて - 嵐の予兆
白銀タワー38階の役員会議室は、午前10時を過ぎた時刻に重苦しい空気に包まれていた。
長テーブルの奥に、白銀 俊哉が座っている。黒いスーツ、白いシャツ、その口元の小さなほくろ。無表情に見える顔だが、握られたペンが微かに揺れている。その揺れが、内面の緊張を物語っていた。
隣に立つ氷室 沙耶。長い栗色のストレートヘア、鋭いグレーの瞳。その瞳は、テーブルの上に広げられた資料に向けられていた。資料を配布する彼女の動作は完璧だ。一枚、また一枚。役員たちの前に次々と置かれていく。
「本日の緊急役員会は、内部告発問題について正式に議論する場です」
その声が響いた。それは白銀 統一郎だった。
52歳の副会長。温和そうに見える表情だが、その目の奥には氷のような冷たさが隠れている。右耳の銀のピアスが、会議室の照明に反射する。
「先日、白銀グループ不動産部門における簿外債務の隠蔽疑惑について、外部から告発がありました。本来は公表を避けるべき内部問題ですが、既にマスコミの嗅覚にも引っかかっている状況です」
ざわめきが会議室を走った。役員たちが互いに視線を交わす。何人かが資料に目を落とし、眉をひそめた。
「今日の資料には、その告発と関連する可能性のある情報が含まれています。特に注目していただきたいのは、別紙の『取引データ』です」
統一郎は、氷室 沙耶に目配せをした。沙耶は即座に反応し、一枚の資料を掲げた。それはメールのスクリーンショットだった。
「このメールは、今から2年前に送信されたものです。白銀グループ不動産部門と、取引先である丸瀬食品の間で交わされたものです」
プロジェクターの光が、スクリーンに映像を映し出す。メールの内容。
件名:「取引データの数値矛盾について」
差出人:桐原瑠奈
受信人:白銀グループ不動産部門 担当者
日付:2年前
「ご覧のとおり、当時丸瀬食品の営業事務部員であった、桐原瑠奈が送信したメールです。内容は『貴社との取引において、以下の数字に矛盾が見受けられます』という指摘です」
その言葉が会議室に響き渡った瞬間、役員たちの視線が、俊哉に集まった。
俊哉の表情は変わらない。だが、握られたペンの力がさらに強まった。机の端で、その指が微かに震えている。
「お気づきの通り、俊哉君の妻、桐原瑠奈さんです。彼女は、既に2年前から、白銀グループの不正に気づいていた可能性があります」
「それは推測です」
その声が響いた。冷たく、しかし明確な否定。俊哉が口を開いた。
「メールの内容は、単なる業務上の矛盾指摘に過ぎません。それを内部告発の端緒と判断するのは、恣意的な解釈です」
その返答は、完璧だった。社長としての冷静さ。計算された言葉。だが、その心の奥では、別の感情が渦巻いていた。
瑠奈のメール。2年前に送信されたその言葉。当時、彼女は本当に何も知らなかったのか。それとも——
統一郎は微かに笑った。その笑みは、勝利を確信する狡猾さに満ちていた。
「では、社長室で詳しくお聞きしましょう。瑠奈さんについて」
会議は1時間で終わった。結論は先送りされた。しかし、空気は変わっていた。役員たちの視線は、すっかり疑いに満ちていた。
午後2時。
白銀タワー38階の社長室。俊哉は机の前に座り、スマートフォンを握っていた。画面には瑠奈の連絡先。何度も目が行く。だが、まだ連絡していない。
「社長」
その声がした。振り返ると、氷室 沙耶が立っていた。いつもの秘書室から移動してきたのだ。
「お疲れ様です。コーヒーをお持ちしましょうか」
「いい」
その短い返答に、沙耶の表情がわずかに曇った。
「あ、ちなみに。この資料、本当に丸瀬食品から入手したんですか?」
沙耶は答えなかった。その沈黙が全てを物語っていた。統一郎からの指示。彼女と統一郎派の関係。全てが、計算されていたのだ。
その時、俊哉のスマートフォンが鳴った。相手は瑠奈からの電話ではなく、丸瀬食品からだった。
「お疲れ様です。先ほど、警察からの照会がありまして...瑠奈さんについて何かご存知ですか」
その質問が、俊哉の心臓を揺さぶった。
警察。内部告発事件は、既に警察沙汰になっていたのか。
夜。午後6時。
レジデンス・プラティーヌ白金の32階。俊哉は瑠奈を呼び出した。白いソファに彼女が座り、その対面に俊哉が座る。二人の距離は、2メートル。その距離が、今この瞬間には、無限に感じられた。
「2年前。君が丸瀬食品にいた時代。白銀グループ不動産部門に対して、取引データの矛盾を指摘するメールを送った」
瑠奈の顔が、わずかに青ざめた。
「覚えていますか」
「はい。その...当時、単純に数字が合わないと思ったので」
瑠奈の声は小さい。左の鎖骨の下、星形の痣に無意識に手が触れた。緊張の表れだ。
「その矛盾について、その後どうなりましたか」
「特に...何ももありませんでした。その後、通常の業務に戻って...」
その言葉は本当だろう。俊哉はそう信じたい。だが、状況が全てを疑わせた。
「統一郎が、今日の役員会でそのメールを提示した。内部告発と関連する可能性があると」
その言葉で、瑠奈の全身が緊張に包まれた。
「そんな...私は何もしていません。あのメールは本当に、単なる...」
「君が何かを隠しているなら、今のうちに教えてくれ」
その言葉。その問い。それが、瑠奈の心に最も深い傷を与えた。
(やっぱり...この人は私を信じていないんだ)
その思いが、瑠奈の心を圧迫した。
「何も隠していません」
その返答は、本当だった。でも、瑠奈自身も不安だった。自分でも覚えのない記録。警察からの照会。すべてが、自分に疑いの目を向けている。
その夜。瑠奈は母・芳恵に電話をした。
赤羽の古い家。電話の向こう側から聞こえる母の声。
「お母さん、私...何か悪いことしてないのに疑われてる」
「何があったんだい」
瑠奈は、全てを話した。メール。統一郎。役員会。そして、俊哉の問い。
沈黙が流れた。その沈黙の後、芳恵の声が響いた。
「瑠奈は何も悪くない。お前が本当だと言ったなら、本当なんだ」
その言葉。その単純さ。それが、瑠奈の心に最初の光をもたらした。
「でも、俊哉さんに迷惑をかけてる...」
「そんな人だったら、最初からお前を選ばない。その人は...多分、お前のこと、本当に大事にしてるんだよ」
その言葉が終わった時、瑠奈は涙していた。
母の声。その温かさ。それが、瑠奈を支えていた。
白金台のマンションに戻った瑠奈は、リビングで俊哉を待った。
夜中の12時を過ぎ、俊哉がようやく戻ってきた。疲れた顔。その顔を見て、瑠奈は静かに立ち上がった。
「お母さんに電話しました」
その言葉に、俊哉の顔が微かに動いた。
「...何か、言われましたか」
「『お前が本当だと言ったなら、本当なんだ』って。そう言ってくれました」
それを聞いた時、俊哉の表情が変わった。
「俺も...同じだ」
その一言が、瑠奈を包み込んだ。
(やっぱり...この人は私のことを信じてくれてるんだ)
その確信が、瑠奈の心に灯った。
だが、その灯りの外側では、統一郎と氷室 沙耶が、さらに次の手を練っていた。瑠奈の過去。その中に隠された秘密。それが、これからの嵐を呼ぶことになるのだ。