冷酷な御曹司に溶かされて
平凡なOL・桐原瑠奈は、突然大企業グループの御曹司・白銀俊哉から契約結婚を申し込まれる。経営戦略の一環だと聞かされ、引け目を感じながらも条件に同意した瑠奈。冷たく無表情な彼は、結婚式の日も結婚後もこれは契約だと繰り返すばかり。高級マンションでの新婚生活は気まずく、瑠奈は息を詰めるような日々を送っていた。
白銀家の社交界デビューで晒される瑠奈を見守る俊哉の瞳は柔らかく、その矛盾に瑠奈の心が揺れ始める。やがて彼女は気づく——俊哉の冷酷さは本当の優しさを知られたくない防御なのだと。秘書の美しい女性が執拗に俊哉に接近してくると、瑠奈の心に初めて嫉妬が芽生える。俊哉も同じ気持ちなのか、彼は瑠奈の手を離さなくなり、二人の距離は劇的に縮まっていく。
しかし、契約結婚という建前が邪魔をする。瑠奈は本当に愛されているのかという不安に押しつぶされ、俊哉は契約という枠を超えた本音を告げるべきかで葛藤する。密着する中で交わされるキスも、抱き寄せる手の温もりも、すべてが疑いの種になってしまう。同時に、俊哉の経営する企業の内部告発問題が浮上し、瑠奈が関わっていることが明かされようとしていた。
真実の愛なのか
冷酷な御曹司に溶かされて - 秘書の影
白銀タワーの38階に向かうエレベーターの中で、瑠奈の手は冷たくなっていた。
あれから五日。契約結婚から数えれば、もう二週間を越えている。レジデンス・プラティーヌ白金での毎日が、いつの間にか「日常」になっていた。朝食を作り、白い食器に盛り付け、俊哉がそれを無言で口にする瞬間。その静寂の中に、瑠奈は何かが変わり始めていることを感じていた。
でも、今日は違う。
「社長夫人、社長室へ」
秘書の案内で、瑠奈は初めて俊哉の職場を訪問することになった。朝、俊哉が「今日、タワーに来ないか」と、いつになく柔らかい声で言ったのだ。その言葉には、単なる形式以上の何かが含まれていた気がした。
エレベーターが38階で停止する。ドアが開いた。
いつもと同じ、高級な廊下。だが、瑠奈の心臓は跳ねていた。左の鎖骨の下、星型の痕に手が無意識に当たる。緊張のサイン。
白い大理石の床を歩く。両脇の油絵が瑠奈を見守るように立ち並ぶ。社長室のドアが見える。黒い重い木のドア。その向こうに、あの男がいる。
ノックをする前に、秘書室のドアが開いた。
「奥様、お待ちしていました」
氷室沙耶。長い栗色のストレートヘア。グレーの瞳。完璧に仕上げられた紺のスーツ。首筋の小さなアザの痕が、いつもより目立つ気がした。その表情は微笑んでいた。だが、その笑顔は氷のようだった。
「いえ、こちらこそ」
瑠奈は丁寧に答える。相手の反応を伺いながら、慎重に言葉を選ぶ癖は、上流社会でより強くなっていた。
沙耶は、瑠奈を横目で見やった。その視線は値踏みするようで、完全に瑠奈を下に見ていた。それから、社長室のドアをノックし、躊躇なく開いた。
「社長、奥様がいらっしゃいました」
社長室は、瑠奈の記憶通りだった。約80平方メートル。天井高3.5メートル。窓一面に東京湾が広がり、その中央で、俊哉は椅子に座っていた。黒いスーツ。暗い栗色の瞳。口元の小さなほくろ。何も変わっていない。だが、瑠奈の心は変わっていた。
「来てくれたんですね」
俊哉が立ち上がった。その声はいつもより柔らかかった。通常の無表情ではなく、ほんの少しだけ別のものが混ざっていた。
「はい。呼んでいただいたので」
そう答えながら、瑠奈はデスクの周りに目をやった。書類が積み重ねられている。契約書、事業計画、経営報告書。その傍に、沙耶が立っている。自分の肩が俊哉のデスクに近い距離で、指一本分ほどしか離れていない。
自然だ。その距離感は、完全に自然だった。
沙耶は、俊哉の隣で書類を指差していた。
「社長、この第三四半期の営業利益ですが、当初予算から5パーセント上昇しています。特に不動産部門が——」
冷静な声。仕事的な口調。完全に秘書としての振る舞い。だが、その手が、わずかに俊哉の肩に近づいていた。
「それは前回の改革によるものだな」
俊哉が答える。その視線は書類に向けられていた。沙耶の方を見ていない。だが、沙耶の手は俊哉の肩に、確かに近づいていた。
そして——
その手が、俊哉の肩に、そっと置かれた。
それは一瞬だった。ほんの0.5秒。だが、瑠奈の目には、それが永遠に感じられた。沙耶の手。白い手首。俊哉の肩。その三つが一直線上で触れ合った。
「やはり、社長の指示が効いているんですね」
沙耶の声は相変わらず事務的だった。だが、その手はまだ俊哉の肩の上にあった。ほんの少し、力を込めて。
瑠奈は、その光景から目が逸らせなくなった。
(何これ...)
心臓が、おかしな音を立てていた。
沙耶は俊哉の好みを知り尽くしていた。前回のパーティーでも、彼はコーヒーを飲むと言っていたのに、沙耶はすでにそれを用意していた。「社長はこの時間帯にコーヒーを召し上がりますので」と言って。
そして今、その手を置く距離感も。その位置も。すべてが自然で、習慣的だった。
(私は...)
瑠奈は、自分の存在を感じた。妻として。契約で結ばれた存在として。だが、その契約が何を意味しているのか、瑠奈には分からなくなっていた。
「瑠奈」
俊哉が気づいた。瑠奈がドアの前に立ったままでいることに。
「ああ。来たんですね」
そう言って、俊哉は沙耶の側を離れた。沙耶の手が、すうっと肩から落ちる。その仕草さえも、完全に自然だった。
「どうぞ。座ってください」
俊哉がゲストチェアを示した。瑠奈はそこに座った。デスクを挟んで、俊哉と向かい合う位置。沙耶はその側に立ったままだ。瑠奈の後ろに。見守るように。いや、監視するように。
「今日は、あなたに見てもらいたいことがあります」
そう言って、俊哉は書類を広げた。それは、白銀グループの新しい事業計画書だった。社会貢献事業。教育支援プログラム。瑠奈が関心を持つような内容。
「これは...」
「あなたの意見を聞きたいんです。契約相手として、ではなく」
俊哉の言葉が、瑠奈の心を揺さぶった。
だが、その時、沙耶が身を乗り出した。
「こちらの数値についてですが、社長」
また。またしても。沙耶は俊哉の注意を自分に向けた。その手は、今度はデスクの上に置かれた。俊哉の手のすぐ傍に。
そして、沙耶の指が、俊哉の指に、ほんの少しだけ触れた。
「...ああ、これはそこを修正する予定だ」
俊哉が答える。その指を、わずかに動かして。
瑠奈の胸が、きゅっと締め付けられた。
(あ...)
この感覚。何なのか。
しばらく、俊哉と沙耶の会話が続いた。営業利益。市場展開。競争戦略。専門的な話題の中で、沙耶は常に俊哉に近づいていた。身体の距離が近い。声が低い。時々、わざとらしくも見える親密さ。
そして、瑠奈は、その場に「いない」ような気がしていた。
(私って...)
もう一度、瑠奈は書類に目をやった。俊哉が提案した事業計画。それは、本当に瑠奈のような女性を念頭に置いて作られたものだった。教育支援。庶民的な生活への理解。普通の幸せを守る事業。
でも、それは俊哉と沙耶との関係の中では、何の重要性も持たないのかもしれない。
「瑠奈、意見はありますか」
突然、俊哉が瑠奈に注視した。その瞳が、瑠奈を直視する。
「あ...はい」
そう答えながらも、瑠奈の心は別の場所にあった。沙耶の手。俊哉の肩。その距離感。その親密さ。
「いい計画だと思います...あ、でも」
瑠奈は、書類の細部を見つめた。予算配分に少しの違和感を感じていた。実装の段階での現実性について。
「この部分は...もう少し丁寧に考えた方が...いいと思いますが」
小さな声。相手の反応を伺いながらの発言。いつもの瑠奈だった。
だが、その言葉に、俊哉は頷いた。
「...ああ。お前の指摘は正しい」
お前。一瞬、俊哉はそう言ってしまった。いつもは瑠奈さんと呼ぶのに。その変化さえも、瑠奈には、沙耶への親密さと比較してしまう。
「...ありがとうございます」
そう答えるしかなかった。
その後、帰りの車の中で、俊哉は仕事の話をしていた。営業戦略。競争環境。市場分析。瑠奈は「ああ」「そうですね」と相槌を打つだけだった。
(本当に、私は...何なんだろう)
レジデンス・プラティーヌ白金に戻ったのは、夜の19時を過ぎていた。俊哉は書斎に籠もった。いつもと同じパターン。瑠奈は、リビングで一人になった。
白いソファに座り、窓の外の夜景を眺める。東京タワーが赤く光っている。レインボーブリッジが虹色に輝いている。すべてが美しい。だが、瑠奈の心には、その美しさが入ってこなかった。
コーヒーを作った。温かいマグカップを両手で持つ。その温かささえも、心には届かなかった。
左の鎖骨の下、星型の痕をなぞる。いつもの癖。だが、今日はその動きが、いつもより強かった。爪が肌に食い込む。痛い。でも、その痛みの方が、現実的に感じられた。
(嫉妬...)
瑠奈は、その言葉を、初めて自分の心の中で、はっきりと認識した。
これは嫉妬だ。
沙耶と俊哉の関係に対する。その親密さに対する。その何かに対する。
でも——
(契約なのに)
それが、一番つらかった。この契約では、そんなことを感じてはいけない。感じる権利がない。俊哉は、自分の妻を契約で選んだ。報酬のために。
だから、俊哉が誰と親密になろうと。それは、自分には無関係なはずだった。
なのに——
胸が痛い。
深夜、リビングに出てきた俊哉を見ても、瑠奈は何も言わなかった。いつもは「お疲れ様です」と声をかけるのに。今日は、そのまま視線を窓の外に向けたままだった。
「...瑠奈」
俊哉が声をかけてきた。
「はい...」
小さな返事。
俊哉は、瑠奈の横に座った。何も言わず。ただそこに、存在した。
その沈黙が、瑠奈をさらに苦しくした。
(あの人は、何も気づいていない...)
それが、一番つらかった。自分が何を感じているのか。自分がどれほど揺らいでいるのか。契約の中で、どれほど本気になってしまったのか。
そのすべてを、俊哉は知らない。
いや、知ろうともしていないのかもしれない。
ソファの上で、二人は何も言わず、ただ夜景を眺めていた。遠い距離で。契約相手として。妻と夫として。だが、心の中では、瑠奈だけが、確実に何かを失ってしまっていた。