「灰色の魔導師、再び立ち上がる」
かつて帝国の名高き大魔導師であったリードは、現在42歳。風見の辺境の村でひっそりと隠遁生活を送っている。栄光の日々は過ぎ去り、村の若者たちからは哀れみの目で見られていた。東方からの帝国侵攻の噂が辺境を脅かす中、村の少女たちは彼の懸念を一笑に付す。しかし、不吉な兆候を目の当たりにしたリードは、かろうじて保たれている平和を守る決意を固める。
問題は、衰えた肉体と魔力だった。彼は禁断の術「マナ融合」に手を染める。これは自身の魔力回路を周囲のマナと強制的に同期させ、莫大な力を得る代わりに生命力を削る危険な技術だ。苦痛に耐えながらもほとんど命を落としかけるが、彼は諦めず、かつての力の錆びついた残滓を掴み取る。
24歳の帝国騎士アイラが先遣隊として村にやってくる。規律正しく冷静な彼女は、隠居した魔導師の役立たずぶりに懐疑的だ。一方、16歳の魔族の少女リリアは、帝国軍の追撃を逃れ負傷したまま村に迷い込む。無垢で好奇心旺盛な彼女はすぐにリードに懐く。アイラは魔族に警戒心を抱き、リードは過去の戦争の記憶に苛まれる。緊張の中で、世代も種族も異なる不器用な絆が芽生え始める。
リードの不完全なマナ融合は
「灰色の魔導師、再び立ち上がる」 - 灰の回廊、あるいは逃げ場を失った手と、握り返した沈黙
掴まれた手の温度が、まだ残っていた。
レイドは走りながら、その感触を意識した。アイラの右手がレイドの腕を強く引いた瞬間——翠冥の森が炎に包まれる直前、煙の向こうから響いたレイドの声に、アイラが考えるより体を先に動かして駆け寄ってきた、あの瞬間。布越しに伝わった熱。それは単なる「確認動作」の力加減ではなかった。
そして今も、石扉の内側。
古代遺跡〈灰の回廊〉——翠冥の森の深部に埋もれるように存在する古代の石造建築——の中を六人が走っていた。石壁に刻まれた幾何学文様が、足を動かすたびに視界の端を流れる。松明はない。でも石そのものが微かな光を発していて、暗くはない。石の内側に何かが宿っているような、古い、静かな光だった。
「止まるな、奥へ!」
カルヴァが先頭で短く告げた。幅広い肩に埃がついていて、走る足元は確かで速い。集落の民を庇いながら、この回廊の構造を確かめるように壁を一度だけ叩いて通り過ぎる。その目つきは感情を読ませないが、今夜だけは微かに険しい。
レイドは走りながら右手を一度だけ見た。
アイラはすでに前を向いて走っている。赤茶色の髪が乱れ、緑の瞳が前方の石壁と幾何学文様を走査している。騎士の目線だ。出口を、退路を、可能性を。その顔に迷いはない。
でも、指先。——さっき触れたものの残り香が、そこにある気がした。
(整理は後でいい)
アイラは心の中でそう切り捨てた。今は任務だ。足を動かすことだけが正解だ。
その時、回廊の中ほどで、ドン、と重い音がした。
天井の一部が、落ちた。
***
瓦礫が通路の半分を塞いだ。拳大の石から大人の胴体ほどの岩まで、ごちゃまぜに積み重なって道をふさいでいる。砂埃が舞い上がり、視界が白くかすんだ。
「集落の民、先に通れ!」
カルヴァが即断した。瓦礫の隙間には、身軽な人間なら抜けられる空間がある。子供なら問題ない。老人も、手を貸せば通れる。カルヴァが先に身を滑らせ、反対側から引っ張り始めた。
集落の民が次々と通り抜ける。ゴルトが後ろから押す。五人、六人。
そのとき。
全員の動きが、一拍止まった。
リリアだった。
銀色のショートボブが、砂埃の中で揺れている。首から下げた子供の手製飾りがゆらゆらしている。そしてその両腕には——葉っぱの標本の束、乾燥薬草の束、書き写したメモの束、石ころ数個、あとよくわからないものが数点——が抱えられていた。集落の廃小屋に居候していた三日間でリリアが集めた全財産が、この逃走劇に同行していた。
カルヴァが瓦礫の向こうから、一瞬だけリリアを見た。
それから、回廊の天井の幾何学文様を見上げた。一秒。二秒。
何も言わず、視線を戻して「来い」 とだけ言った。
レイドが低く呟いた。「集落で一番大荷物なの、誰だ」
走りながら、アイラが即座に返す。「今は黙ってください」
リリアがむっとした顔で瓦礫に近づいた。「だって葉っぱのやつは乾燥に三日かかったやつで」
「後で聞く。今は通れ」
カルヴァが手を伸ばした。リリアがその手を取り、荷物をじゃらじゃらさせながら瓦礫を越えた。子供から貰った手製飾りが岩に引っかかって一瞬だけ揺れたが、外れなかった。
ゴルトとリリアが通り抜けた側に行った後、瓦礫の向こうとこちらで視界が分断された。互いの声は届く。でも姿が見えない。砂埃が漂う薄暗い通路に、レイドとアイラだけが残った。数十秒間。
「こっちから回れるか」
レイドが壁を確認しながら言った。右側に、瓦礫をかろうじて避けられる細い隙間がある。人ひとりが横向きに通れる程度。アイラが先に確認して、うなずいた。
「通れます。でも——」
言いかけて、止めた。
言いかけた何かは、任務に関係する内容ではなかった。瓦礫をよけて進む数十秒の間、レイドの声が聞こえていた。その声の位置で、レイドがどこにいるかが分かった。声が聞こえるたびに、アイラの足が自然にその方向を確認していた。理由を問われれば「安全確認」と答えられる。でも胸の中で動いていたものは、もっと単純で、もっと個人的な何かだった。
二人は瓦礫の隙間を通り抜けた。
反対側に出た瞬間、アイラの右手が——反射的に、ほとんど無意識に——レイドの外套の袖に一度だけ触れた。
確認動作。生存確認。騎士の習慣として説明できる動作。でもその力加減だけが、そういう語彙にきれいに収まらなかった。布の下に体温があることを、指先が確かめていた。
次の瞬間には、手が離れていた。
レイドは何も言わなかった。でも視線だけが、一瞬アイラの方を向いた。琥珀色の瞳が、砂埃の中でかすかに光を受けている。四十二年分の落ち着きを持った目だが、今夜だけは少し、違うものが混ざっている気がした。
「行こう」
低い声だった。それだけだった。
二人は走り出した。
***
回廊は奥へ進むほど、天井が高くなった。
石壁の幾何学文様が複雑になっていく。同心円状の紋様が、螺旋状の紋様に変わり、やがて見たことのない形の組み合わせになる。帝国の灯紋院——帝都ヴェルガに本院を置く国立魔導院——の研究書で見た遺跡の記録に、こういう文様があった気がする。でも様式が根本的に違う。帝国の技術じゃない。もっと古い。
レイドはそれを走りながら確認していた。
奇妙なことが、起きていた。
走るたびに、回廊の幾何学文様が体の近くを通り過ぎるたびに——左腕の青白い瘢痕が、かすかに熱を持つ。魔力回路の奥が、この石壁の何かに反応している。三年間、錆びついたまま動かなかった回路が、翠冥の森に来てから少しずつ動き始めていた。それがこの回廊の中で、さらに加速している。走るたびに、一段、また一段と、何かが開いていくような感覚。
(何だ、これは)
逃走中に魔力の精度が上がる。それは矛盾だった。戦闘と消耗の後に、回路が研ぎ澄まされていく。翠冥の森の大気魔素——空気中に漂う魔力の素——と、この遺跡の何かが、組み合わさっている。レイドにはまだその理由がわからない。わからないまま、回路は動き続けた。
「奥に部屋があった!」
カルヴァの声が前から届いた。
六人が走り込んだ先は、直径十メートルほどの円形の広間だった。天井が高く、四方の壁が石で閉じている。中央に台座があり、その上に複雑な幾何学文様を刻んだ石造りの構造体——装置のようなもの——が据えられていた。紋様の中核部がごくわずかな光を発している。蛍光色のような、でも蛍光とは違う、古くて静かな光だった。
カルヴァが壁を一通り調べた。ゴルトが別の方向を確かめた。
「出口はない」
短く、端的だった。感情は入っていない。ただの状況報告だ。でもその言葉が広間の石壁に反響して消えた後、六人の呼吸が一斉に浅くなった。
集落の民が壁際に集まった。子供の一人が大人の腕にしがみついた。
足音が聞こえた。
石扉の向こうから。回廊の外から、石を伝って低く響いてくる。規則的で、静かで、急いでいない。包囲の完了を確認しながら進む動き方。
アイラにはわかった。帝国騎士団〈鎧鷺騎士団〉の訓練を受けた兵の足音だ。自分も同じ訓練を受けているから。焦っていない。逃げ場がないと確信した上での、余裕のある包囲完了。
「どの方向も、あと数分しかない」
アイラは声を落として言った。感情を押さえた、騎士の口調だった。でもその言葉を言いながら、四方の壁を再度確認しながら、アイラの中で何かが静かに決まっていった。
リリアが胸元の荷物を両腕でぎゅっと抱え直した。標本の束が、子供の飾りが、メモの束が。
カルヴァが剣の柄を静かに握った。集落の民を壁際に寄せ、自分が前に立つ。
ゴルトが無言で、カルヴァの隣に並んだ。
思考より、体が先に動いた。
アイラの右手が、レイドの腕を掴んだ。
強く。
傷の確認で触れてきた全ての瞬間と、違った。煙の中で袖を引いた時とも、違った。今の握り方は、骑士の語彙で説明できる範囲をはっきりと超えていた。布越しにレイドの腕の硬さと体温が伝わってくる。指先が、それを離したくないと思っている。
アイラは前を向いたまま、声を落とした。
「生きていてください」
一言だった。
それが何なのか、アイラ自身まだ言葉にできない。恋愛感情と呼べるかどうか。義務感と呼ぶには熱すぎる。任務報告書に書けるような内容ではない。ただ全身が、この言葉を今言わなければならないと知っていた。言わないまま何かが終わることを、考えたくなかった。
レイドが、何も言わなかった。
代わりに、掴まれた腕を、そっと握り返した。
力は弱い。強引でも確信的でもない、静かな圧力だった。でも確かに、そこに意志があった。アイラの手の温度に応えるような、それだけの意志。四十二歳の男の、抑えた感情の形だった。
リリアがそれを見た。
銀色のショートボブの少女が、オッドアイで二人の手を一瞬だけ見て——何も言わず、正面を向いた。その沈黙は優しかった。知らないふりではなく、口を出さないという選択だった。彼女なりの、無言の承認だった。
足音が石扉の向こうで止まった。
広間の中に、六人の呼吸だけが残った。
***
静寂がいくつかの拍数続いて、それから——
中央の石造りの装置が、光った。
かすかな発光だった。最初は気づかないほどの明るさで、でも確かに、中核部の紋様が点灯した。それが隣の紋様に伝わり、また隣へ。まるで光の筋が文様を辿るように順番に灯っていく。広間の壁の幾何学文様も、その光を受けて静かに応じた。
その発光の中心が、レイドの立つ方向を向いて、少し強くなった。
レイドは掴まれた手のまま、右手を見た。
左腕の青白い瘢痕が、装置の光と同じ色で、かすかに輝いている。魔力回路の奥で、何かが呼応している。装置と体の間に、細い糸が結ばれたような——音ではない、感触でもない、でも確かにそこにある、静かな共鳴。翠冥の森の大気魔素と、この遺跡の仕組みと、自分の中の何かが、同じ方向を向こうとしている。
アイラがそのレイドの顔を見た。
間近だった。掴んだ腕の距離で、顔が近い。装置の光の中で、疲弊と消耗があるはずのその横顔が——また、変わっている。翠冥の森に来てからずっと気づいていた。走るたびに、魔力を使うたびに、ぎこちなかった動きが滑らかになり、顔の疲労の皺が薄れ、何かが取り戻されていく。矛盾した変化だ。消耗するはずの場所で、若さを取り戻している。その変化が今、装置の光の中で、至近距離でアイラの視界に入ってくる。
アイラは目を離せなかった。
任務的な確認として説明できる。傷の有無を確かめることも、状態を把握することも、先遣隊副隊長の職務の範囲だ。でも今視線が動かない理由は、それではなかった。この人の変化を、この人の顔を、見ていたい。それだけだった。
カルヴァが問うた。「何をした」
レイドが答えた。「何もしていない」
二人の視線が装置で交わる。カルヴァは嘘だとは思っていないようだった。ただ「では何が起きているのか」という問いが、その無言に込められていた。
「この回廊の文様が——俺の魔力回路に何か触れている。意図してやったことじゃない」
淡々とした説明だった。感情を抑えた、落ち着いた口調。でもその声の中に、戸惑いに似た何かがあった。自分の体の中で起きていることを把握できていない、という珍しい状態が、レイドの声に少しだけ滲んでいた。
アイラは掴んだ手をまだ離していなかった。
レイドも、握り返した手を離していなかった。
二人ともそれに気づいていた。気づいた上で、離さなかった。
リリアが胸元の標本の束を両腕で抱えたまま、装置の光を眺めた。その光がゆっくりと強くなっていく。広間の幾何学文様が全部、同時に発光した。石の古い空気が、振動するように揺れた。
「きれい」
リリアが静かに言った。この状況でその一言を言える彼女の純粋さが、異様な緊張の中に、ほんの少しだけ呼吸を作った。
壁の向こうの足音が、また動き始めた。
石扉を探している音。回廊の構造を確かめている音。静かで、確実で、詰めてくる音。
装置の光が一段階強くなった。
レイドの左腕の瘢痕と、広間中央の装置の光が、同じリズムで脈打っている。それをアイラは見ていた。掴んだ手の中に、そのリズムが微かに伝わってくる気がした。布越しの体温が、装置の光と呼応して、わずかに温度を上げている。
(離さなくていい)
アイラは思った。騎士の思考ではなく、もっと個人的な場所から、静かにそう思った。
石造りの広間の中で、六人が息を潜めていた。装置の光が幾何学文様の全てを照らし出し、古い遺跡の天井まで届いていた。足音が、石扉の向こうで止まった。また動き始めた。
何かが、始まろうとしていた。